恥の多い生涯を送って来ました。

生き辛い私が日々感じることを残していきたいと思います。

独りの夜の反省会

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独りの夜は病むので外でメシを食うことにしようと決意したのであった。結果的にそれが正解となることが多かったからであり、今日もやはりこの塩きつめの焼き鳥を頬張りつつ流し込むホッピーは最高だし、ハッピーだった。気がかりは金銭面だけだった。誰だって決められた予算内でやり繰りするのではないか?いや、それは生き辛い人間の思考なのか。それはわからんが、今、現在、私は予算を超えて酒を飲みに来ている。予算を超える事は自分にとってギルティではなくなっていた。

もう軽く予算を超えているのに飲みに行くのは何故なのか。それは金を惜しむより、寂しさや虚しさが勝ったからだ。

私は最近病んでいると思う。コミュ障がどうとか、他人と比べて自分は…とかとは違った。真理と自分の考えとの隔離に病んでいた。

人間は本来社会的な生き物であり、確かに自分は家族という群れの中で生きてきたし、今も彼女と群れを形成していた。それなのに私は人間が信じられないとか、1人が気楽とかほざいていた。

しかし、それではオキシトシンが分泌されないことを知ると、自分の進む道は違うのかな、と自問自答のループが始まった。

現に出勤日は誰かしらと絡んでオキシトシンが分泌され、安定しているのに対して、休日は線香を燃やして故郷の親族を思い出したり、確かに孤独は病むというのは真理だった。

私は独りでいることが安らぎだと思っていた。しかし、極端なのは良くなくて、丁度よく、独りの時間を持ったり、誰かと交流する時間が必要なのが分かったここ数日であった。f:id:datekanal:20230630061114j:image

一軒目は隣のお兄さんもスマホをポチポチしていたので話しかけなかった。それはそれでいいと思う。きっかけも無しに話しかけるのはお兄さんの居酒屋での過ごし方にそぐわないものかもしれないからだ。だが二軒目は群れからはぐれた燕に愛をそそぐ親父さんとの会話を楽しんだし、競輪に勤しむお姉さんに絡まれて悪い気はしなかった。お姉さんのグループも、常連っぽいおじさん達も、ここを自分の居場所にしているようだった。外食は浪費ではなく、必要経費だと思った。